最近、tzetzeさんとこの記事に依存しすぎ。

ホワイトカラー労働の特徴は専ら身体能力よりも思考能力を恃む点を措いたとしても、その身振りや受け答えやものの考え方といったスタイルを労働の形式上求めずにはいられない点やさらに進んでひとつの生活の様式全体が労働の中で価値化された形式で構成されるようになるという点で、非常に興味深いものではある。

でも、このことは歴史的な継続過程のなかで見れば単に階級化の兆候がミドルクラスとともに現れている、ということであるに過ぎないのかもしれない。イデオロギーの正統な理解は、それが単なる虚偽や偽善ではなく、むしろ現実の諸制度に支えられて発生したにも関わらず自ら価値化されることで現実世界の基礎づけとなり、この倒錯によって行動を律し行動がさらに価値をかくあらしめるといった循環を描く、人間にとってのひとつの恒常性、条件なのだということを弁えていた。

己を普遍的真理であると自惚れている資本主義の精神は、自ら矛盾を定期的に曝すことでむしろ原則のひとつである希少性の論理――特殊で数少ないものと一般的で有りふれたものの循環的総合ということに忠実であろうとするわけであるが、いずれにせよ、彼らの生命線が彼らの危機であることには変わらないし、同時に急進主義の政治にとっても不可欠な起源であり、目的であるということもまた事実なのだから、平常性を不可能にする常態と化した不安定さは数々の社会的閉塞を突破する亀裂となることで利用可能な手段となることを忘れるわけにはいかない。けれども、不安定な恒常性は自らを諸条件一般として理解することを拒むきわめて巧妙な論理を兼ね備えている。したがって、認知は意識的な不安定を誘発する破壊的活動によって覆される必要がある。恒常的である不安定性に回収されるとしても、時限的には有効であるこれらの手段は専ら技術ではなく、単純な社会的正常性への侵犯として理解される必要があると思う。

階級が再編され固定化された後には大抵が停滞期が待っているものであり、その停滞期には階級闘争はむしろ後景化してしまうから、なんらかの危機が連鎖的に社会の正常性を揺さぶるときにはこの機会を決して見誤らずに階級性と社会的一般性という往復運動の中から合理的正当性を担うにたる言葉を見出さなければならない。

http://d.hatena.ne.jp/tzetze/20090129/1233229129

まあ、便器が一つか二つ壊れてる程度は「迷惑行為」に回収されてしまいますが、町一個あるいは特定の空間すべてにおいて破壊されるなら、そのことは大変有意味な機能を担いうるという、そういうお話です。