拉致監禁に関するあれこれ


心理的実験として保守的な感覚で自分の原則的立場を正当化してみるテスト。


原則論としてはデモ隊列の何者かが拘束されれば、それに抵抗しようとするだろうし、救援対策への支援を訴えられれば協力したいと考える。あるいは、一定の親和性を条件に運動への弾圧はそれ単独で抵抗や抗議を支持せしめる十二分な根拠となる。弾圧は弾圧だし、その容疑やら罪状にあたるところの行動についてはそれなりの批判的評価を下すにしても、原則は原則だ。つまり、建前と言ってもいい。擁護出来ない振る舞い、というのは予め考えられる限りの留保をつけたとしても、恐らくは心理的障壁として厳として存在するだろうし、否定しようとは思わない。それは個人が個人として考えればいいことで、その場の状況や距離に応じて自分の行動を決めていくという人間の活動にとっての当たり前の条件であるに過ぎない。


いま、心理的障壁、といったけれども、これは別様に言いかえれば心理的親和性と傾向のことであって、たとえば焼き打ちや襲撃、その他諸々の破壊活動が原因で運悪く官憲に拘束されたとあれば、それに対する抗議や抵抗、それに様々な支援といったものへの協力は前述の原則からして促進されるけれども、ただ、逮捕それ自体に憤るか否かはまた別の問題であって、もしも僕自身が当事者(現場で同じ側に属している、という意味において)でないのなら、そして、距離が十二分にあるのなら、落ち着いて判断することもできるし、その行為を外部から眺めて適当にあれやこれやの論評をすることだってできるだろう。つまり、逮捕の事実をそれとなく認める意識下の振る舞い、というものがここにはある。それが可能なのは単なる逮捕の事実とその後に引き続くであろう法的な手続きの妥当性についての判断は別のものであると考えられるからであり、何事であれ程度というものを弁えることを他人たち――自分と異なる、それどころか敵対するであろう人間たち――との間に置くことを他人にも自分にも課すことを妥当なふるまいであると考えるからであり、単なる法的な瑕疵や不備でない実体的な破壊活動に対する生活圏からの抜き難い嫌悪と非難には、道義的判断は留保するとしても、事実としての客観的必然性は見出されると考えるからであり、最後に長期の勾留や具体的な罪の判決はそれ自体独立して批判されるべき事柄であると考えるからだ。


当該の行為とそれに対する逮捕・処罰の連関は成程事実においては連続したものと考えられるけれども、そうは言っても個々の領域はそれなりの独立した批判の対象になりうると(建前としては)想定されるから、弾圧という言葉で一つのものとして表現されていたとしても、個々の事例に応じて、またその程度や段階や距離に応じて判断というものは多様でありうる。乱暴に言ってしまえば、判断なんてものはニュアンスやアクセントのつけかた次第でいくらでも変更可能なものでしかない。軍事的暴力による転覆としての革命などというものに血道をあげる人々を別にすれば、あるいはその鏡像としての反体制は如何なる形式においても実効的な手段によって制圧し粉砕しなければならないと考える連中を除外するなら、我々にとって是が非でも正当化しなければならず、また、目的は手段を正当化するとの論理に従わなければならないような妥当性というのは取りあえず見当たらない。つまり、物事には妥当性というものがあるだろうし、敵であれ味方であれ、あるいは単なる赤の他人であれ、それなりの正当性やそれなりの不当性というものは相応に認められるということになる。つまるところ、問題は様々な領域に無理矢理当て嵌められている規則の厳密な適用や解釈のあれこれを問い直す視座というのは、結局我々自身の生活において日常的に行われるのと同じ程度や妥当性への感性に由来している。


十二分に譲歩して法の支配とやらを認めてみても、程度の問題というのは依然として残る。政治的であることを選択したからといって、それが人間の存在のすべてになるわけではないし、生活の全過程に浸透するわけでもないから、他人たちと話す余地というものは何時でも残ることになるし、穏健で保守的な態度というものを常にでないにせよ、少なからず他人たちと話し合う場にあっては持ち合わせておくことは基本的には「良い」ことであると思うが故に、以上の感覚というものを僕は捨て去りたいとは思わない。


そして、だからこその疑問であり、憤りであり、また怒りであるわけであるけれども、一体に落書きに建造物損壊を適用したり、ビラまきに建造物侵入を適用したりする妥当性はどこにあるというのだろうか。政治的な活動に対する二重基準を用いた、法の恣意的運用を許容することは、上記のようなきわめて穏当でそれ自体が十二分に保守的ですらあり得るような認識に立って見ても、到底正当化できそうにない。第一に「迷惑」を犯罪化することそれ自体への異議があり、これは生活における障害に官憲の介入は基本的に不要であるとの伝統的な――つまり、同時に極めて問題を含んだもの*1でもあるが、<良識>的な生活者の原則であるような――態度であるし、第二に犯罪化するにせよ程度の問題というものが問われねばならず、その際にオマワリが恣意的に拘束することを許容する現行の司法制度の実態があり、また司法制度内での組織的分岐(裁判所、検察、警察)は有名無実であるとの事実における不正があるわけであるし、最後にこれらすべてに加えて政治的活動に対するソフィステケートされた形で行われるが故に認知されないままの、歴史的な制度的腐敗としての弾圧がある。政治的案件に対する司法の恣意的運用は正しく暴力と呼ばれるのが相応しいし、その被害者が何者であれ不正への抗議と抵抗それ自体に限って言えば正当性は考えるまでもない。


多分、こうした感覚というのは時代に沿わなくなってきているのだろうし、およそ十数年前から徐々にであれ生活の全領域への警察活動の介入というのは広がってきているのだろうし、それに応じて生活する人間たちも自警団的あるいは夜警的な発想というものに親和性を持ってきているのだろうとも思う(制度がそれと気づかれることなく生活それ自体を侵し、それによって人間たちの認知もそこに適合したものになるというのは分かりの良い話だと思う)。でも、そうした世界というのは詰まる所、散々っぱら秩序の擁護を好き勝手に自認してきた人間たちがアナキズムやそれに準じる発想に対して浴びせかけてきた罵倒――無秩序の恐怖、無政府状態=「北斗の拳」的世界――と変わる所のない代物ではないのだろうか。自分たちの反転した鏡像を認知できるのは、要するに自分たちでそうした世界を既に構築して、あるいは協力して作り上げてきたからであって、他人の暴力の可能性に怯えるのは端的に自分たちが暴力を封じるに暴力を以てするのを佳しとし、あまつさえ、そうした暴力が現前することすら認めたくもない、という卑劣極まりない態度に由来するに過ぎないのではないかとの疑念まで生じる。合理的根拠を担保するだけの理屈も道理もかなぐり捨てて、自分たちと異なる人間たちとの共同の生を前提から排除して、なにが何でも自分たちのコマ切れで不安定な<生活空間>の安全と平和を維持しようとし、なおかつ己の力によってではなくアウトソーシングされた暴力の介在によってそれらを担保しようとする姿勢は、逆説的に無秩序を証明しているし、程度や妥当性を弁えないやり方は暴力を批判する根拠を事実上失効させている。

*1:例としてあげれば、この論理はDVなどを家庭内の問題として原則的に不問に処す蓋然性が高い