吾人豈に追昔撫今の情なきを得んや


あれかね、ネット上と現実における差異というのは結局、自分に同意したり反対したりする他人たちの表象が、自分自身の意識にある親和的な他者観念か経験的な形で――従って、絶対的な形で――その存在を刻み込む他者存在かってことなのかな。例えば、何かに賛意を示したり、内心惹かれたりしても、だからといって同意見の人間を都合よく一纏めに扱うことはできない。何でかと言えば、彼ないし彼女と自分自身の間には決定的な断絶があり、意見の同一はそのまま人格や意識の優良さを示すことが不可能であるためだ。そしてまた、このような具体的な他人の存在は自分自身の賛同を反省するきっかけにもなるし、事態の進行においては意見の翻意が単なる打算や日和見としてではなく、誠実さとして要請されることもある。我々は事情が変われば、その選好や親和性にあわせて、すぐさま好意的になったり、逆に極端に頑固な態度をとったりする。

他人たちの冷淡さ、酷薄さ、卑しさ、それにおぞましさは、これらの人々への反発から対立する一方の極に同情的な態度を形成する。卑劣で臆病な人間が自分をさしおいて、他人を責めているのを目撃したとしよう。すると、我々は彼に対して敵意や反感を覚える。その敵意によって、責めの合理性や妥当性などには頓着せずに、彼に怒りを覚えることができる。同時に被害者に対する同情(!)をも、それは意味する。こうして、同情と敵意によって二つの極が形成されていく。しかし、またもやここで被害者が加害者と同程度に愚劣で傲慢な人物であることが判明する。我々は今更振り上げたこぶしを降ろせぬとは言え、これ程までに腐敗した人間の正義を果たして信じていいものかと不安になり、事の成り行きとそもそもの発端について落ち着いて考えなおしてみようとするだろう。そして、いそいそと勝負の舞台から抜け出し、予め今後起こるであろう反動にそなえるのだ。

このような恥ずかしい経験をいくつも重ねながら、我々は大人になっていった。そして、今や他人たちとの無条件の同意など有り得ないし、また同じように対立は基本的に和解可能なものであることも知っている。他人たちの具体的なそれぞれの存在が、我々をして何事につけ程度と節操を学ばせる。反発であれ、好意であれ他人の具体的な身体性は、ある意味で絶対的である。それは、我々の存在が断絶を抱えており、にもかかわらず他人たちと共に在るのだということを、絶対的な形で我々の意識に抑圧として刻み込むのである。

程度というものの中で他人たちとは、それぞれに差異を抱えた複数の集団からなり、一つの敵対が人間たちを二つに分類したとしても、さらにその内部の対立や確執が本来の敵対性を緩和していて、それは妥協や臆病さを意味しもするけれども、同時に他人たちとの和解や調停を好む傾向を産出する可能性をも含んでいる。


けれども、我々は自分たちが直接経験していることを除いて、あらゆる存在を想像的に把握することしかできない。過去という形であれ、あるいは伝聞という形であれ、いずれにせよ我々は記号表現を通してしか他人たちを理解することができないのである。記号表現が抽象度を高めれば――言いかえれば簡潔になればなるほどに、他人は絶対的でブレのない確固たる存在になる。経験的な他者の絶対性とは存在のブレなさ等ではまるでなく、唯単に<存在すること>の絶対性であり、そのような存在の絶対性は逆に不可知な、無限のブレとして現れる。想像的な他者は決して動揺せず、移ろわず、永遠に確実な存在でありうる。自分自身の意識以上に確実なものがあろうか?


我々はネット上で他人たちを識別するにあたって、経験的な現実存在であることに思いをはせることは先ずない。ネット空間は現実的な世界から相対的に自律しているので、そこで見られる個々の発言は他人たちの内面=本音として機能してしまいがちである。少なくとも、我々は何故かそう信じ込んでしまう。こうして、賛同を示す他人は今や想像的で最も抽象的な他者の一方の極=絶対的な同一性・一致として把握されるようになり、他方で敵はこうした他者像の対称形である絶対的な理解不能さ・断絶として理解されるようになる。我々は他人たちの地獄にあればこそ、他人たちに寛容さや妥協を許しうるし、また自分にも許しうるものと考えるのである。眼差しを欠いては超越的な他者は存在しようがないのである。我々は己の意識に逃げ込むことで、この超越性を己自身に依拠させ屈伏させるのだ。こうして、今や世界は私の意識と矛盾しないものとなる。


経験的な現実の中では、どれほどの怒りや憎しみも決してそれのみでは過剰にならぬよう、無意識の制動が働く。怒りに我を忘れていても、眼差しの中の眼差し――他人たちの顔は消えぬものとして残り続ける。相手の顔を見ながら暴力を行使するのは、どれほどの感情的な衝動の下にあろうとも、ひどく気分の悪いことだ。しかし、この気分の悪さ――欲望の躓き、そしてまた躊躇い――は我々を我に返すと同時に、すでに拳を振り上げていることをも意識せずにはいられぬから、そうすると事態の合理化のために一層の悪意を煽ることもありうる。そして、さらに我々は理性を道具主義的に使うことに慣れているため、自尊心と見栄のために如何なる感情的な理由もなく、ただ振り上げられた拳は再び降ろさねばならないという真理に基づいて、相手に暴力をふるう。そして、殴られ傷め付けられるのが恐ろしいという根源的な防衛本能が暴力を過剰なものとしてしまう。そういうわけで、我々は経験的現実にあっては、めったに暴力を露わにしない。発言であれ、身振りとしてであれ、暴力を介在させるときは相当の意識を以てしか、我々はこの暴力を正当化できない。要するに、胆も決まっていないのに他人たちと絶対的な形で敵対するような真似は出来ないのだ。何時も我々を道徳意識や諸々の感情的な衝動から救ってくれる理性は、ここでも我々を利害関心の調整という方向に向かわせる。


他人たちが抽象的な存在として、或いは透明な意識として己自身の意識のうちに発見されるのなら、我々は他人たちと幾らでも敵対しうるし、どれほどの暴力であっても行使しうるだろう。感覚は感覚的与件の乏しい世界では容易に遮断しうるし、また操作しうる。

かくして、我々は巷間言われるところの「回線の向こう側の他者」を意識していない、というのが誤りであることを理解する。他者は、あまりに透明な存在として把握しうるが故に、絶対的なものとして無慈悲に扱いうる対象として立ち現れるのである。



…と、でも考えないとですね、無反省にダブスタは出来ないと思うんですよ。だって、もしリアルと同じ世界認識と意識によって活動しているとしちゃうと、今度は我々は経験的な現実においても他人の話なぞ少しも注意を払っていないし、その存在などまるで理解していないという話になるし、同時に論理的整合性とか、一般的な蓋然性とか、首尾一貫性とか、或いは最低限度の誠実さというのが事実上、他人たちの抑圧や圧力を通してしか獲得されてないという話になるでしょう。ヤポネシア人民がそんなに愚昧で愚劣で卑劣で怯惰で低脳な存在ばかり、というのは世界に冠たる大日本帝国臣民の皆様方としては納得がいかれないでしょう?やはりここは、ネット空間における他者認識がその環境の特性ゆえに歪んでいる、と理解した方が被害も少ないと思われますがいかがでございましょうか。


というようなことを、以下の記事を読みながらつらつら考えた。


http://d.hatena.ne.jp/hagakurekakugo/20080524/p1
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/hagakurekakugo/20080524/p1