「権利」ってのはそうする正当性ってだけじゃなく、(それを)成し得る自由があるという意味だと思ってたよ


http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.scribd.com/doc/11624092/

これね、当たり前のことしか書いてないのね。法律上もフツーの話。もちろん、君らと同じくらい法律なんて知らないし、有体にいってどうでもいい。ついでにいえば、法律なんて規範じゃなくて、結局強制力だろ程度にしか考えてないのも同じだ。ただね、任意ってのはそういうことだし、自らの意思において選びうるということ、もっと端的にいえば拒否しうるという点にこそ、法にあって維持されている権利の基盤じゃないのかね。

まあ、それはどうでもいいや。理屈遊びだっていうんだろ。君らは、それが実際に効力を持てるかどうか、言い換えれば正当性なんぞではなく、現実的かどうかを心配しているわけだ。だけどね、そんなこといえば、この正当性つーのは最低限の現実性を有するし、それが無いというのは制度的な現実には実のところ法も糞もあったもんじゃないって告白してるようなもんだよ。それはそれでいいけど、だったらなおさらポリ公のやることに従う必然性も、合理性もなくて、ただオマワリはその暴力によってのみ、強制力によってのみ現実の存在だつーてるようなものだ。平たく言って、押し込み強盗とかヤー公とかとどう異なるのか分からんよ。まあ、そういう連中は法だの秩序だのはんかくさいことは言わないから、どっちがマシかもよく分からんがね。

まあ、正義とか正当性の話は措いておこうか。君らのコンセンサスでは、正義とか正当性てのは権力関係の中でしか現実的には問題にならない観念なんだし。

ついでにいえば、現実的であるどうかは何時でもそうであるように全体的な状況に関わっていて、そこでは何事であれ自らの意思を明示して、他人たちに反対し、他人たちに当然のことのようにこちらの論理を認めさせない限りは何時でも相手に従わざるを得ないという、うんざりするような他人との関係のことだから、これまた君らにしてみればその時点で既に敷居が高いとみなされるわけだ。通じるかもしれないし、通じないかもしれない相対的関係、というのが君らにとっては桎梏となるし、諦念の起源ともなる。だって、自分がどんな些細なことであれストレスを感じず、相手が配慮してくれないなら、指一本動かしたくないし、結果が分からないことなんて最初から失敗と同じとみなしてるんだもの。



確実性のないことは集団的なバックアップがないとしたくないし、だから何時でも抑圧的な同一性の集団を維持したがるんでしょ。そこにいれば自分が「我慢」(しかし、本人たちが気に入ってるものを我慢とか抑圧とか、よく言うよ)する代わりに、何らかの利益が見込めるはず、てのが君らの集団の定義だし、そこにあってすら、自分と他人との対話において当該の集団性を組織するのではなく、専ら既にあった権力関係と暗黙のうちに押し通されるヒエラルヒーを通してしか築き上げられないんでしょ。自分が自然に身につけたものはどうあっても批判や問い直しの対象なんかにならないし、そうなるのは他人に見捨てられてると感じるときだけ、調和を乱すという形式的な問題においてだけで、内実なんて問う筋合いはないつーわけだ。逆に言えば、誰かが調和ある秩序を毀損するなら、当該の秩序の内実も他人がそれに抗する理由も何一つ関係なく不当だ、て話になるんだろ。あまりに馬鹿馬鹿しくて、涙が出てくるよ。


それで、今や、何故か知らないがそういう安定的な集団性が維持できないと感じてあれこれ理由を探しては、犠牲者を血祭りに上げたくて仕方が無いんでしょう?でもそれ、全部君らの問題だから。他人にはそんなもの関係ないし、責任も無いよ。選んだのも君らなら、維持したのも君らだし、そうしておいて満足すべきだって自分に言い聞かせて、あまつさえ他人にも偉そうに説教してたのも、全部君らであって、他人じゃないよ。いつから、自分のやったことを他人のせいにできるなんて話になったのかしら。一体、いつから自分が弱く何時でも従属的であれば常に既に何時でも自分の利益は配慮してもらえるし、受動的なままで正当性だけは確保できるなんてことになったのかしら。馬鹿言わないでよ。不作為は君らの問題だ。君らが自分で認知した図式の中で、君が何もしなくても正当性が明らかなら、それはすべて君の問題だし、他人はそんなものに関わる筋合いもなければ、知ったことでもない。道義的な話なんかしてないよ。単に何もしないなら、そのまま放置されて、君が予期したもの以上でも以下でもなく、君の認識の中において描いたあれやこれやが事実となって、全部君に跳ね返ってくるというそれだけのことだよ。単なる事実と蓋然性の話だ。モラルとか人間性とか正義とか、君らが自分のために、自分が何かしないでおくために用意したアリバイの話なんか、どうして赤の他人が気にかける必然性があるのか、まったく分からないね。


ポリ公が職質だの身体検査だのを要求してきたときに、これを事実において拒否できるかどうかは現実的で相対的な力関係かもしれない。実際問題として、連中がどのくらいそこに力を注いでいるか、言い換えれば本気かどうかにかかっている。これは、僕らにはどうしようもない権力との非対称性だ。でも、だから、相手が従っている論理を通して相手が不当であるなら強力に主張できるんだよ。連中は自分の意思においてそうしてるんじゃない、言い換えればそれを「仕事」としているし、「職業」上の要請としてやってるんだからこそ、連中にも弱みはどこにでもあるし、連中がうんざりしてどうでもいいと見なす程度に抵抗してやることは十二分に意味がある。仮に、最終的に譲歩したとしても粘って時間を費やさせることには意味がある。連中が日常的な業務の一環として、ノルマ稼ぎのためにやっているなら、君が自分の顔と名前を覚えさせるくらい徹底的に言い争い、時間を遅延させ、相手を疲弊させることが出来るなら、君は君の自宅や職場付近のポリから嫌がられる存在になれる。それは非常に貴重なことだし、大変有意義なことだ。ポリ公は何か問題があったときに君のとこに来るかもしれないって?馬鹿か、君は。なんで法律談義なんかするやつのところにわざわざくるんだよ。そんな事件、めったに無いぞ。それにそういう話なら、連中はオマワリ嫌いってカテゴリーをきちんと持っていて、余程のことが無い限りかかわりあいになりたがらないよ。少なくとも君らが日常で出会うポリは。


不審人物扱いって表現がブコメにあがっているけど、不審人物って唯一つのカテゴリーなのかね。またぞろ、君らが勝手にオマワリをおもんぱかってる、てだけじゃないの?頭悪いにも程があるよ。君ら、どんだけ臆病でどんだけ小心なんだ。大体、君ら、「政治的」なことがらに関わりあいにならないって決めてるんだろ。だったら、オマワリ嫌いに分類されたところでどんな危険性があんだよ。大体、オマワリにあれこれケチつける程度の連中を捜査対象にしないといけないような事件てなんだよ。オマワリに対してこちらが正しいということを理屈をこねて言う輩と、単にポリ公に敵意をむき出しにしてる輩の区別くらい誰にだってつくに決まってんだろ。それともあれか、君らの家や職場の近くでポリ公狙った犯罪でも起こるのか、公然と政治的テロでも起こるのか。だけど、昨今の公安がらみの事件なんて、大半が不特定で不明の容疑者捜すような類の事件じゃないだろうが。全部やったやつも、その日時も分かってて、お決まりのようにパクりに来てるだけだろ。それとも、あれか。いつか蜂起の日のために身を潜め、相手に目をつけられないよう隠密の生活を心がけてるってか。すごいな、君らは非公然活動家か何かか。君らの妄想がたくましいのは結構だけど、君らの言葉を借りればそんなもの一体現実的な予測ていえるのかよ。むしろ、日常生活で警邏のポリが嫌がって近寄らない方が余程、得じゃねえか。もの考えてから喋ってくれ。


もっと有体に言おうか?君程度の人間が、連中にあれこれケチつけたところで大した問題になるはずがあるかね。君は自分をよっぽど高く見積もってるんじゃないの?君らはセクトの関係者か、君らはナンチャラ弁護士会の一員か、君らは某党の活動家か、君らは反社会的と目されポリ公がそれを特別の業務対象として取っておく組織に関与する人間とでもいうのか。もし、そうなら既に日常において平然と関わりがあって、こんな些細なこと問題でもなんでもないだろ。アホかよ。当たり前のことが当たり前に出来ないのは、単に君らが舐められてるからだよ。


ああ、公安関連で名前が挙がるって?そりゃ、凄いね。オマワリ批判すると公安に狙われるのか。君ら、警察国家に住んでるんだね。そらあ、すまなかったよ。君らが平和そうにしてるのも、シニカルさを気取っていられるのも、なんでもかんでも権威と権力関係を楯に偉そうなことを言うのも、君らの生き延びるためのやり口だったんだね。それは本当にすまなかったよ。僕は君らを誤解してたよ。君らはそれほどまでに日常生活の根幹に秘密警察を招き入れてしまっていたのか。それは哀れだし、むごいね。いや、ほんとに同情するよ。


つまり、君らは何時でも権威や権力に脅かされて生きているし、身近な他人は密告者や制裁者になりかねないわけだね。つまり、一般的に言って他人は信用できないわけだ。安心なんて全て嘘で、無いから余計に服従の安息を脅かされるのはご免だ、て話だね。すばらしいね。いやいや、まったく。ほんとに大したものだし、凄いよ。褒め称えたいくらいだ。


そりゃあ、法律だのなんだのは一切関係ないし、何か抵抗したり敵対したり、それどころか悪意と敵意があれば既にそれだけで「有罪」なのもうなづけるね!君らに言わせれば無政府状態とは所謂一つの「北斗の拳」状態らしい。僕には申し訳ないが全く意味が分からん。でも、君らが意識と精神においては「北斗の拳」的世界に生きているのだけはよく分かったよ。うん、ほんとに哀れだし、悲惨だし、あんまりだね。ほんと。そりゃ、不愉快だよね。一生懸命「我慢」して「みんな」で平和に生きようとしてるのに、揉め事を持ち込むんだから。ただでさえ、放り出されたら何も保障されないし、何もかもが奪われるような極限的な世界に生きているんだから、それは怒るのも無理ないし、法に書き込まれた妥当な権利なんてどうでもいいよね。むしろ、そんなもの本当に認めたら、他人が好き勝手なことはじめて自分が一生懸命はいつくばって手に入れたたった一つの平穏さまで滅茶苦茶にされかねないものね。


ほんとに、お気の毒様。僕が君らに出来ることは殆ど無いよ。いや、ほんとにすまない。今まで誤解してたよ。僕が悪かった。この通り、君らにしてやれることなんて何もない。そうだね、一つだけ言えるとすれば、寝言も大概にしてよってことくらいかな。君ら、自分の日常は安穏としていて、それ自体大して害もなければ、支障もないだろ。というか、もっと言えば気に入ってんだろ。君らが持ち出す論理がな、どういう経路をたどっても、どんな形式の下に披露されようと、どっちにしろ胡散臭いのは、君ら自身は一ミリだって被害を蒙ってなんかいないからだよ。ええ、ええ君らはよく言うよね。「それが現実だ」とか「皆がそうやってる」て。いやね、そんなこと誰も聞いてないんだよ。「君ら」がそうしたいかどうかなんて誰が聞いたよ。ばーか。勝手にそうしたいなら、どうぞしてくれ。君らの理屈が汚らしいのは自分たちも告発者と同じくらい被害を蒙っているけれども、それに耐えてこの平和を贖ってるんだ的なガキみたいな戯言をほざくからだよ。それは、全部君らが自分で選んで、自分で望んだんだよ。そんなもの他人に押し付けるいわれなんかねーよ。他人はこんなもの要らないって言ったんだよ。こんなものは間違っているし、自分の責任でもなければ、自分の望みでもない以上は、それを拒否するって言ってるんだよ。君らがそれに反対するのは君らの自由だ。でも、そうだとしたら、君らと他人の間には敵対しか残らないし、そうなったのは他人が拒否して、君らが同意しているからではなく、君らが他人も同意しろと脅迫するからだよ。君らが線を引いてるんだ、間違えないでくれ。君らが自分からやったんだ。それこそ「関係も無いのに」のこのこやってきて、誰に頼まれたわけでもないのに、連中のお先棒を担いで喚いてるだけだよ。



http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090203/p1


こういうエントリがあって、何万回繰り返されたか分からない「左翼」論議と「非政治的存在たる権利」てな主張が飽きもせずまたぞろ姿を現している。一方は他方の前提を否定していて、他方は一方の想定された無謬性を批判する。この議論によれば「観客席」と「闘技場」の比喩が問題になっている。一方が「巻き込むな」といえば、他方は「関係ないやつなんかいない」という。闘技場しか存在しないという論理と、見世物の見物人はそれ自体現実だし保障されるべきだという論理だ。この上もなく明瞭なことは要するに敵対関係が発露されている、ということであってそれ以上でもそれ以下でもない。どっちが正しいかなんか問題にするつもりはないよ。そんなの、どっちだっていいもの。ただ単に「お前も関係者だ」つー論理と「俺は関係ない」て論理の間には和解なんてない、ていうそれだけの話じゃないか。関係なくて傍観者でいたいなら、どうすればいいか君ら、百も承知だろ。いつでもそうやってきたし、可能であればそうし続けたいんだから。それは結構だし、勝手にすればいい。そうするのは君らの問題だし、君らの行為だ。結果も含めて君らのものだ。正しいかどうかみたいな話じゃないよね。

ただ、僕に分からないのだね、呼ばれてもいないのにわざわざ見物に来て、適当に野次ってるうちに巻き込まれて文句を言うときの君らの理屈の幼稚さだ。君ら、なんて言う?そういう時に、他人になんて言ってる?必ず、自分の方が「妥当だし、正当だし、まともだ」て言うだろ。そう、言わざるをえないとか思ってんの?でも、君らが選んだのは君らの欲望に従ってだし、現に喚いてる根拠も君らの欲したものでしかないし、それ以上の理屈なんかどこにもないじゃない。


野次馬がそこにいれば巻き込んで騒ぎを大きくするに決まってるだろ、馬鹿。おい、今更「正しさ」を云々するなよ。最初から相手の正当性を認めない論理で真っ向から敵対している人間たちに、何だってそんな理屈が通るんだ?頭悪いの?威されたら、威し返すし、やられたら、やり返すんだよ。泥仕合は望まないって?そのための秩序と平和だって?おい、君ら、本気で言ってるのかよ。君らがはじめに排除したんだろ、その平和とやらから。どうして、排除されたものが君らの理屈に従うんだよ。なんで同じものでない人間たちが、同じ理屈に従うんだよ。他人てのはそういうもんだろ。他人がいる、てのはそもそもこっちの道理も理屈も正当性も原理的に通じないて話だろ。誰が他人で、その中の誰が敵かなんて誰だって日常的にやってるじゃないか。君らはほんとにそそっかしいな。君らのストレスフルな日常生活はそういう他人を排除するためにあるんだよ。君らの平和とか日常てのは、君らが他人たちと一緒に相互の抑圧と監視によって互いに守るから成立するんだよ。そんなもの受け入れるつもりがない赤の他人に、なんで君らのたかだか狭い人間関係でしか有効でないゴミ屑以下の論理が通じると思うの?


大概が頭の悪い論理というのには一つの共通点がある。自分を合理化して正当化するために、物事の敷居をどんどん高くしていくからだ。絶対、なんて言葉は誰も使ってないし、誰も全てが、なんて話はしてない。それを先回りして、テロやら暴動やら暴力やらを蓋然性の中に組み込んで、究極的な水準でしか物事を判断しないし、そこに依拠しようとするから馬鹿って言われるんだよ。間抜けだし幼稚だ。どうしてかって?相手の理屈を絶対的な形で否定すればするほど、君らの平和も高くつくことになるからだよ。どうでもいい話に究極的なものを持ち込めばどうなるか、目に見えてるじゃないか。同じ理屈で相手にやり返されるんだよ。権力の有無を言わさない強制力と威嚇という担保以外に、そんな平和は維持できないからだよ。他人を好き勝手に断罪して、排除して、どうでもいいレベルの日常的な利害関心にまでその手のロジックを持ち出すなら、もっと言って調停や和解を予め目的にすえて、それから漏れそうなものを前提として否定するなら、その時には相手も同じ理屈で今度は君らを排除するからだよ。馬鹿か、君らは。どうして、自分が否定して拒絶した人間たちが自分たちの平和や利害や正義を配慮してくれるなんて、どうしてそう思うのかしら。ほんとに頭沸いてない?


行動のまえにそれを絶対的に判断する根拠とか論理を欲するだろ、君ら。それでもって現実的な――君ら自身が共犯関係にある現実的な権力関係を正当性とすりかえるだろ。出てくる結論はなんだ?敷居を高くして、むき出しの力を肯定してるのは君らなんだよ。そうしたら、どうなるかなんて目に見えてるじゃないか。関係があるとかないとか、問題になるわけがないだろ。どうあっても、何かが起これば関係は発生するよ。君らがそういう全体的なレトリックでしか語ってないんだから。他人の正当性を無関係な人間が一々裁断する、てのはそういうことだよ。君らが選んで、君らが望むんだよ。他人の所為になんかするなよ、ハゲ。



ついでにいえば、「左翼」てな言葉が極めて胡散臭く響くのだね、君らが一方的な関係しか想定していないし、そうあるべきだと露骨に考えてるからだよ。君らの論理に従えば、左翼とやらは君らもそこに含まれているある全体の正義を代表しないといけないらしい。左翼は君らの声を聞き、君らの当然の欲求に慮り、君らを丁重に扱わないといけないらしい。どんな理由で?国民だから。権利の保持者だから。社会の一員だから。なにより「左翼」の論理とみなされたものの中に、原則的に君ら自身の正当性も関わっているから。馬鹿言わないでくれ。一体、いつから左翼とやらはそんな全体的で、総合的で、公共的な単一の救済機関になったんだ?左翼って言葉が有効なのは行為とは別にそれを客観的蓋然性の枠組みで認識する限りでだ。君らの大好きな言葉でいえば、メタ視点に立つからだ。状況を分析するのには有用かもしれないし、理解という次元においては有効かもしれない。でも、それは正当性に関わる基礎ではないし、ましてや道徳的な必然性でもない。君らはいつも傍観者でいようとするくせに、傍観者が必然的に陥らざるを得ない距離をすぐに無視したがる。いくつもの利害関心や敵対関係の網目の中で、その現在において何を敵とするかに応じて分断された一方の側でしかないカテゴリーに、全体的で、それこそ諸々の敵対関係というよりは敵対性それ自体を無効にするような絶対性を導入しようとするから、君らは間抜けと言われるんだよ。

実際のところ、一体に「左翼」てな言葉になんだって規範的価値を求めるのかさっぱり分からないし、この言葉に「正義」をかけて平然としていられる神経もさっぱり分からない。分断も敵対もどこにだってあるし、いつだって利害関心と正当性の論理に従って人間は相互に敵対しあっているし、その中でどこで味方し、どこで敵対し、何を駆け引きして、最終的に何を手に入れるか、それこそたくさんの分岐がある。そういうのを全て打っ遣っておいて、君らが君らの頭の中でしか成立しない全体的な理屈で語るなら、君らが避けようとしている現実的なリスクは益々増大するよ。子どもでも分かる論理だろ。


抽象的な理屈遊びってのはそれ自体ひどくもろい。容易に裏返しの理屈で否定できるってことは、当該エントリのコメント欄に沸いている馬鹿の発言にしてもそうで、これが悲惨なくらい幼稚な論理だってことは君らにも分かるよな。絶対的正義があるかないか、なんて現実的な暴力を正当化するかどうかと関係が無いし、ましてやそれが実行されるのを防ぎようがない。絶対的正義は不可知だ。そうだね。あらゆるものには誤謬性がつきまとう。そうだね。それで?じゃあ、なおのこと今現在の法秩序にも権力にも正当性なんてないし、そこに生活する人間一人一人が既にして不当だって論理は十分成立するよ。どんなものでも、現実の行動を問題にしてるときに過度の抽象性を問うなら、相手と和解できないことを前提に暴力は蓋然的なものになるんだよ。そうしたくない、と望むのは君らだ。他人がそう考えるかなんて分からない。だから、交渉するときは他人の利害関心に配慮するだけなく、他人よりも有利でいようとするんだろ。相手を威しつけて、言うことを聞かせられるようにさ。権威とか権力とか暴力ってのはそのためのものだ。他人と自分のあいだの規則を築くには欠かせない力だ。でも、この力は究極的――というのも、そういう話をしているのは当該の馬鹿なんだから――には同じものを返されるリスクを抱えている。



君らは自分が人生においてなんらかの形で関わらざるを得なかった集団の中でいつも我慢してきたし、そうするのが規範的な振る舞いだと考えてるのかもしれない。大体において、他人と自分の両者を超えて存在すると仮定された規範が、他人の利益も自分の損害も調停してくれてきたから、それがすべての他人にも通じると思ってるのかもしれない。でも、他人にはそうしない自由もあるんだよ。これは正当性じゃなく事実の問題だ。だから、君らは強制力をいつでも担保したがるんだろ。お望みとあらば、この暴力を正当な抑止力だとか秩序の担保だと言ってもいいが、それは君らの平和だし、君らの秩序だ。なんらかの<正しさ>なんてものは共有されないなら無力だ。君らが望み、君らが好んで、それを選んだんだ。忘れないでくれ。敵と味方しかないなんて台詞は、まず自分に向けてから発言してくれ。君が敵を決めたんだ。他人がそうしたんじゃない。

とはいえ基本的には他人にしてみれば、君らが何を望もうと、何を欲しようとどうでもいいと考えるだろう。赤の他人なんだから。個人的には、邪魔にさえならないなら、ほんとにどうでもいい。心の底からそう思う。他人は他人だし、他人には他人なりの自由も欲望も正義もあるんだから。でも、君らは自分からどうでもいいことに首を突っ込んできては「間違ってる」とか「おかしい」とか喚くわけだ。あげく、理屈を提示すればいきなり「迷惑だ」とか「巻き込むな」と来たもんだ。誰が、お前らに話しかけたよ。あのな、無関心でいたい自由てのは単に自分の行動が強制されるか否かという点でしか保障されないんだよ。当たり前じゃねえか。どんだけ幼稚園児なんだよ、君らは。他人の行動は巡りめぐって、何らかの形で社会に影響を及ぼすなんてのはその通りだけど、それを否定するってのは本質的に個人の「自由」も「権利」も「正当性」も何一つとして認めないって言ってるようなものじゃないか。いつでも、全体化された総体としての共同体なり集団なりを問題にしないと、行動ひとつ出来ないってのは個人なんか最初から認める気がないって言ってるのと同じだろ。不作為の自由も、無関心の自由も、単に放置されるって意味でしか自由なわけないじゃない。それを望んだのは君らでしょ。知らないよ。自分のケツくらい自分で拭きなよ。


一つだけ、同じことを繰り返すけど、君らと一つだけ分かち合えるかもしれないものがあるとすれば、多分、君らの利害に関わる事柄だけだろう。そして、その点においても君らの幼稚な理屈は、巡り巡って自分の首を絞めることになるという話はできるかもしれない。それは君らが君らの平和を維持したいなら、なおのこと些細なことに君らの馬鹿馬鹿しい理屈を持ち出さない方がそれこそ君らにとっても得だ、ということくらいだ。君らの相手を批判する論理はね、相手があらかじめそれに従う合理的で実際的な担保がない限り、まったく意味をなさないんだよ。簡単にいえば、相手が君らと同じところに属していて、君らをあらかじめ仲間だと思わない限り、はっきり言ってどうでもいい、酷く内向きの理屈なんだよ。ということは、どういうことかすぐに分かりそうなもんだけどね。「現実主義」を標榜するってのはそういうことだよ。相手に配慮してもらえる余地を一切なくしてるのは君ら自身だ。


たかだか職質とかポリの職権乱用程度のことで、それを抑制したり、やりこめたりする行動を「治安」とか「防犯」と絡めて論じるなら、そのときには君ら自身が「権利」も「自由」も要らないし、そんなものどうでもいいって告白しているようなものなんだから、この論理が裏返しで何を意味するかよくよく考えてみてほしい。つまり、他人たちがそんなものは不愉快だし、当然のように拒否したいと考えた場合、どうなるかを考えてみてくれ。それこそリスクの問題だ。これをいわゆる治安機関の必然性と秩序の担保みたいな抽象的な話にするなら、どうなるか少しだけ真面目に考えてみて欲しい。何度も言うけど、君らの論理なんざ君らが選んで、君らが決めたことでしかない。そこにどれほど現実的な理由があろうが、あるいは単なる怠惰な無思慮ゆえであろうが、どっちにしろ関係が無いし、他人たちを説得する道は君ら自身が塞いでいるということをよく覚えておいて欲しい。行動の敷居を高くすればするほど、リスクも増えるんだよ。それが君らと本来的に関係あるかないかはどうでもいい。ただ単に事実において巻き込まれるかどうか、だけが問題なんだ。だって、そういう状況を望んだのは君らなんだから。



まあ、面倒なことになるとかならないとか、そもそもポリ公が現れた瞬間から巻き込まれざるをえないんだから、嫌がらせくらいしとかないとね!そんなかんじー。あ、オマワリ大嫌いとか、オマワリうざいとか、どうでもいいけど俺でノルマ稼ぎすんなボケ、ていう無為徒食の同胞諸君は↓を見てね。

http://d.hatena.ne.jp/tzetze/20090207/1234010040

疲れてきた。


明日のヤポネシア帝国主義を担う国家サンディカリスト攻撃評議会の皆さん、草木も眠る丑三つ時をいかがお過ごしでしょうか。スペインのファシストはネーミングセンスをどうにかしてください。さて、落書きばっかり大量にアップして、見る人に素敵な嫌がらせをするという崇高な革命的使命感に燃えてここまでサボったり、アンニュイってたりしていたワタクシ様こと人の子様ですけれども、どうにも近頃やる気が起きません。生まれてからこの方、ずっと近頃です。つまり、永遠の現在です。まあ、どうでもいいです。

ワタクシ様は昔から無駄遣いがしたくなくともしないではいられない経済のけの字も知らない人間でございましたから、まさしく消費社会の申し子のようなものなのであって、天上の真理の反映なのです――とか吹いてみようかと思ったけど、よくよく考えればそれは単に年がら年中頭の中がポトラッチな人というだけなのではないのか。そして、もっとよく考えれば物欲には強奪があるように、欲望には直接行動がつきもののはずなのに、なにゆえ媒介などに頼ったのかと強く自己批判いたしました。交換するより、燃やす方が断然楽しそうだよ!

あー、それはどうでもいいんですが、経済誌を何故か最近買うようになってるんですね。で、これがホントに単なる嗜好ならオヤジ化で済む話なんですが、実をいうと少しも読みたくはないのです。だって、バイオレンスとかレボリューションとかいうのとは無縁なファンタジーなんでしょう。そんな詰まんないもの、読みたくないよ。まあ、それはどうでもよくて、今週だかのエコノミストが特集で「日本経済処方箋〜経済「戦時」克服のためのチェンジ〜」とかやってるのね。それで一々の記事の理屈は知りませんので記事の具体的内容の如何などという話ではまったくなくて、単にあの雑誌とその記事の作者たちの前提というのは「経済力を再生させる新自由主義」か「社会的平和をとりもどす古き日本的保護主義」というアジェンダなんですよ。なんで?意味わかんないけど、これ最近は始終見かけるようになって、ワタクシ様なんぞは人の子でございますから、それはそれは大層薄気味が悪くて仕方が無くて。


これ、なんなん?意味分からんよ。どっちも要らないじゃないか。え?現実的に取りうる二択だって?いや、全然現実的じゃないじゃないか。どっちも変わらないくらい間抜けな選択肢だよ。前者はあれでしょ、よくいる「社会保障の前に経済の再生。お財布が増えなければジリ貧だし、増えれば保障はそれほどの負担にはならないから」とかいうのと同じでしょう、要は。それで自分たちの現実性を、レーガノミクスの成功例みたくイギリスとか挙げるのかしら。ブレア登場辺りからやけに景気が良くなってきたんでしょ、あそこ。それでサッチャーの経済政策がようやく効を奏し始めたとか言われてたらしいよ。不動産関係に外資がボンボン手を出せるようになって云々てな話を聞いたことがあるけど、まあ、理由なんざ知らん。でもさ、すごく聞きたいんだけどね、景気が良くなると何で社会保障が強固になって、より多くの予算が充てられるようになるの?そうなる必然性みたいのはまるで感じないんですけど。企業の経済活動が活発で、消費もそれなりに大きくて、国家の歳入もそれなりに増大して、総じて景気が良いといわれる状態でも、少しも豊かでない人間が大勢いるところなんて、世界中にたくさんあるよ。景気が良くなると、なんで国家が社会保障の領域に気前よく予算つけるようになるの?より保障内容も充実して、さらに資格も緩和されると素朴に信じられる理由はなんなの?あるいは、要するに景気が良くなれば雇用人口や給与の増大が一般的に予測されるから、暮らし向きはよくなるはずって話なのかもしれないけど、お金持ちとある一定以上の階級だけはさらにリッチになるけど、下方に行くにつれ極めて厳しい労働条件と給与に生きるようになるし、社会的保障・教育・福祉からはどんどん外されていくし、消費が出来ない層にいたっては全くといっていいくらい社会から排除されていく、ていうのが新自由主義でしょ。なんで、暮らし向きが良くなるんだよ、ハゲ。


で、もう一方の日本的保護主義てな、要は企業と国家と労働の合体技みたいなものすか。なんか、総動員体制で生産力至上主義をやってた頃からあまり変わらない、奇妙な集団的抑圧の再生産としての経済活動みたいなの。それを今更、どうやって復活させるんだろうか。そもそも、まだあるよ。きもいよ。相変わらず、ビジネスに道徳を持ち出すし、仕事に義務をくっつけようとするよ。それは及びでないっていうけど、君らが復古させようとしてる代物は単なる経済政策でなしに、社会的代案として、つまり<国民>のコンセンサスの生まれる余地があると見なされた論理に従って、当該の経済政策を遂行することを予期しているわけでしょう。だったら、そこに含意されているのはどう考えても例の気持ち悪い集団主義だろ。社会通念だの規範だのてのは、どう頑張ったところで現実的な利害や制度的実体がない場所では存在し得ないでしょう。だったら、君らのやることは明らかにひとつの欲望――この言葉が嫌なら、意思でもいいよ――を制度化させること以外の何ものでもないだろうし、制度の運用の実際はそうした意図が汲まれるような方向で組織されるわけでしょ。それは御免こうむるね。要らないよ。そもそも、別に社会保障とか充実してなかったし、平穏でもなければ無事でもなかったよ。嘘つかないでよ。君ら、金持ちと貧乏人がいたら、金持ちから削って貧乏人に増やすみたいな単純なやり方は絶対やらないし、全体に不公平感がでない形で「利益」を渡すにあたって、絶対に個人ではなくて組織や集団を通して分配したがるだろ。配る側も受け取る側も、負担する側も享受する側も匿名でいる限り、責任はどこにも発生しないものね。まあ、それはいいんだ。経済政策とは関係ないとか言い始めるんだろうし。でもね、君らの論理にそういう匂いがある以上は、少なくとも信用できないね。そもそも効果が疑わしいんだよ。君らの期待する効果をもたらす仕組みをとっくの昔に廃棄してるのが、今のヤポネシア社会じゃないの?そこんとこ強化ないし復活させるのはどうするのさ。これは、明らかに経済的政策のみではすまない話になっちゃうよ。社会政策全般が含まれるから、理屈としては経済的な要求の上に置かれることになると思うんだけど。


まあ、でもね、君ら両方とも信用できないのはだね、経済的再生が成されれば貧乏人が減るとか、セーフティーネットの拡充が図られるとかいうのもそうだし、再分配を強めれば社会的不安の解消と消費活動の活性化につながるとか、何の脈絡も無くふたつのものをつなげて平然としてられるところかしらね。要するに総じて君らの採っている有効性の基準それ自体が疑わしいつーな。

つまり、あれな。公的資本は(経済的に)意味ある領域に、有効なやり方で投資されるべきつー論理な。うん、申し訳ないけど、俺みたいのに利益をまわしても何の経済的活性力にはならないよ。それは大いに認めるとも。そして、労働は断る。でだな、非正規労働の救済案としては非正規労働への規制強化と正規雇用の強制という方向での雇用安定化は、企業が安い労働力を求めて海外に逃げるよ。経済的合理性ってのはそういうものだよ。その覚悟あんの?とか嘯くやんか、君らな。それはあれだよね、いわゆる脅しとか脅迫とかそういう類のものですよね。そう。それなら、不安定労働者は実に合理的に同じやりかたで返すことができる。


金(飯あるいはその種)を寄こせ。さもなければ暴動だ。というわけでしょう?そういうお話ですわよね。それこそ、皆さん方、覚悟の上ですよねー。どんどん治安を悪化させて、しかも悪意と敵意を以て特定の階層と企業にその力を仕向けるのが、不安定雇用の中で生きる貧乏人の経済的合理性ですよね。君らの論理でいけば。

君らは続けるわけだ。正規雇用の強固な保護を取り下げて、雇用の流動化を図れと。雇用が増大するし、浮いた経費で給与の平均的増大も図れるはずだと。いや、しねえだろ。どう考えても。単に正社員が首切られやすくなるだけの話で、それだけならより多くの不安定労働層が生まれて、全体としての層が平均的に底上げされるってだけじゃないの。

いやまあ、どうせ理解できないから解説してくれなくていいけど、意味わからんよ。君らの理屈は。ある項とある項が必然的に連続する理由はどこにあんだよ。ああ、正社員の経費削減と非正規の雇用カットをリンクさせるんですか。そうすると利害の一致が見られ、必然的に層が厚くなり…ってやっぱり一緒じゃねえか。要するに利害の一致によって結び付けられた多数派が多数派として政策決定に一定の圧力をかける限りで有効な手段、て話ね。うん、それ、何も変わってないよ。あと、企業痛まない。平等とかいうな、馬鹿。

答えが一択なのは君らがアホだからだよ。もちろん、それを望んでるけどな!!

最近のキーワードは「単に〜なだけ」


真面目な記事など断固断る。尤も、その真意は適当さにあるので上の言辞すら守る気はありません。めんどくさーい。

それはそうと、近頃やたらと耳にする「ライフハック」ですが、あれって要は生産性の効率化を図る技術なわけで、その部分だけ見ればかつて労働者(の生産性)を管理・維持・向上していく方法として開発された、いわゆるフォーディズムだのトヨティズムだのとそこまで変わりません。というよりは、生産性の基礎を工場においていた思考が、ホワイトカラー労働あるいは知的労働とか言われるような領域に移って、個人ベースになったってだけのような気もします。そんなわけで、断固反対します。他人(企業)のためなんかに、自分ルールとか課したくありません。キモイ。

とはいえ、こうした技術に一定以上の注目があつまるのは、結局、労働という限定された枠組みよりも幅広い生の領域において、自分自身を把握して、整えて、管理していくということへの欲望があるのかもしれません。自律つーとカッコイイですが、まあ、自分の生活や行動を自分自身のものにしたいという欲望のことです。多分、そうしたものが必然的に現れざるを得ないようなインフラがあるんでしょう。そういや、ちょっと関係ないけど中高年の女性に「ガーデニング」とかが受けてるのも、そういうことだという話を聞いたことがあります。「ガーデニング」はひとつの趣味であったり、人生の楽しみであったりするわけですが、それを通して人生や生活を自分のものにしたいという欲求があるんだとか。ほんとかどうかは知りませんけど。

でも、俺は全力で断る。むしろ、仕事をサボるためのライフハック術が学びたい。todoやスケジュール管理による効率化や自己規律としてのルール作成といったことは本来、自分の人生や生活や「仕事」(近代以前と共通であるような)のためにあるのであって、労働とかいう割合個人にとってどうでもいい代物のためにあるわけではありません。つまり、外部から与えられた規範とか義務とか命令とか脅迫とか搾取とかのためにあるわけではないはずです。自律性は剥奪されているなら、必ず奪い返す必要があります。

とりあえず、企業の業務を遅滞させることが正しい労働者のあり方だと思います。というか、それが「仕事」です。

日本文化とかいわれると反吐が出る


あ、オタクコンテンツといえば、韓国とか台湾とかでもフツーに「萌え絵」が描ける人がいるというのは、結局日本固有のものでもなんでもねえじゃんというアレな話がありますわね。まあ、当然といえば当然で。文化とかあんまり関係なくて、単にそういう絵を描ける人が描けるというだけですね。描けない人はジャパニーズカルチャーの享受者だろうか、信奉者だろうが描けません。それだけです。ぎゃは。

個人的にはアイデンティティーの政治なんつーものは、あるとしても一般性と固有性の往復運動だと思ってるので、すぐに安定性と恒常性を求めて無意識的な依存を合理化するような態度は大嫌いです。不変項みたいなアイデンティティーなんて、どんどん解体されて消えてしまえ。

大変残念ながら、君らはまったくもって最早子どもではない。


そういや、チャイルドアビューズを何故か「みだらな行い」とか「性的いたずら」とか表現する不思議言語感覚があって、他方でそうした呼称自体が問題の本質と奥深いところでつながっているということを告発する言説がこれを非難する例の構図あるじゃないですか。で、まあ、公式に使われる表現の奇妙な平静さ(これを彼らは価値中立的とみなす)には規範意識が子どもをどう認知しているかが如実に現れているのはそのとおりなので、特に批判とか論評とかそういう類の話がしたいわけではない。わけではないけれども、時々、「性的いたずら」つー表現のほうが余程暴力的かつ残虐な表象に思えて、そうするとむしろ真実が暴露されるのはこの旧態依然とした表現を通してなのではないかという疑念がよぎる。


とか、ふと思いつきました。ロリペドエロ漫画を読みながら。


いや、だって「いたずら」って言い回しの方が悪質な感じがするんだもの。物凄く、他人をまともな人間として扱ってない感がアリアリとしているというか。ナチュラルに非人間。あまりに自然だから感情的コンフリクトは引き起こされませんが、それが狙いだと思います。つか、そのての出来事を不幸だとは思っても暴力だと思ってない感じが漂うんだよね。「みだらな行い」とか「性的いたずら」とかって表現は、どちらかというと極めて道徳的な言い回しに思える。それも、断罪的というよりは抑圧的な方の。まあ、ほら精々が「頭悪いw」とか「キモw」みたいな感覚であって、被害者のほうは実際のところどうでもいいみたいな。なんていうかね、レイプの相対化って割とよく見られると思うんですけど、そのほかの暴力――それも大抵が圧倒的で破滅的であるがゆえに絶対化しやすいような――を持ってきて、比べるという例のアレ。まあ、優等生的に言えば人間性に対する暴力は相互に比較不能ですという辺りなんでしょうが、それ以前に「関係ねーだろ、バーカ」で済ませればいいと思います。で、当該の表現が相対化それ自体を目指しているというつもりはないのですが、社会的正常性の感覚が侵犯されているみなされるような暴力性についていえば、明らかに注意深く取り除かれているようにみえます。えーとね、精々が傷害沙汰の一環くらいな認識で語られるレイプと似てる感じ?もしくは、相手が「子ども」であることの異常性にかまけて、加えられた暴力の社会的意味についてはあまり問う必要を感じていないというか。だって、みんな制裁にしか興味ないんだもの。


レイプが伝統的な道徳観念のなかで制裁されるに足る理由であるのは、大抵がそれが名誉の毀損にあたるからであって、人間に対する固有の暴力であるためではないでしょう。恥と密接に関係するところの名誉の観念が、侵犯されたことを以て、報復を合理化するわけですが、でも、この報復は私闘です。私闘は近代の法治観念からは遠いものです。

そして、またこうした論理と情動の一致が可能になるにはおそらく非常に親和性の高い集団性が空間的に可視化されている必要があると思います。同胞集団みたいなのとか、擬似家族的集団みたいなのとかがあると話ははやいです。でも、今のこの社会にはそーゆーのは無さげですし、あってもあんまり力をもてません。多分、機能しているのは正常性への侵犯ですが、これは名誉や恥ではなく言わずと知れた安全と平和の問題です。ドメスティックな論理からすると安全と平和はひとつのものです。それは治安と呼ばれます。けれども、治安意識の現われはその前提として既に平定された状態をひとつの理想的状態ではなく、既成事実とみなしたがります。そういうわけで、犯罪は危機であるか、さもなければ放逐したり、包囲したりすることで外部化する必要があります。レイプは家族制下の人的集団にとって由々しき問題となりますが、それは治安の論理が保障するはずの(他人たちではなく)自分たちの安全が蓋然性という形であれ、機能不全に陥っているとみなされるからです。

でも、一番手っ取り早い解決策はみなさん先刻承知です。想像力はそれを如実に語っています。要は強姦と見なされない内実が担保されれば、それでいいというわけです。


まあ、何が言いたいのか良く分からなくなってきたのでどうでもいいです。単にエロマンガの和姦描写が気に食わないというだけです。うん、つーか、あれ別にレイプ漫画におけるセックス描写と大して変わらんじゃないの。基本的に同意がとれる、相手の内面を担保できるというそこにしか差異を見出せません。だって、和姦漫画は究極的に閉じた主観性の世界が赤の他人としての相手抜きで成立するけど、レイプ漫画は形式上他人のモノ化にいたらなければならない、ていうホントにそれだけしか違いなんてないじゃない。まー、オナニーのためにあるんだから、それはそれで非常に良く出来ているとは思いますが、そこに現れてる認識はあんまり変わらんよね。

あ、別に規制しろとかそういう話ではないからね。念のため。それはそうとエロ漫画における中出しはなぜデフォルト*1なんでしょうか。あれでしょうか、ファナティックな決断主義とかそういうのなんでしょうか。でも、エロ漫画に、あんまり決意だの決定だのがあるようには思えません。AVだってそうですけど。まあ、なんというか、すごいナチュラルに中出しにいたっています。というより、一本道みたい。ふつー、マジギレされるような気がすんですけど。それとも、あれですか、世の男性諸氏にとってみると中出しが理想的な自然状態なんでしょうか。あるいは、それを事実としても強いるんでしょうか。まあ、双方の合意が取れてるなら問題はないと思いますけど。


とか、思いました。ロリペドエロ漫画を読みながら。



追記:そういや、類似例がありました。演歌です。演歌*2のキモさはわざわざオッサンが男に振られた女の歌を歌うという辺りでしょうか。それも女の方は未練たっぷりみたいな。きもい。正直、引く。あれとエロマンガ*3のキモさは似てるよ。

*1:唯一、という意味ではなく。

*2:の一部。って言わないといけないんだよね!

*3:まあ、一般のオタクコンテンツでもよくみかけるけど

最近、tzetzeさんとこの記事に依存しすぎ。

ホワイトカラー労働の特徴は専ら身体能力よりも思考能力を恃む点を措いたとしても、その身振りや受け答えやものの考え方といったスタイルを労働の形式上求めずにはいられない点やさらに進んでひとつの生活の様式全体が労働の中で価値化された形式で構成されるようになるという点で、非常に興味深いものではある。

でも、このことは歴史的な継続過程のなかで見れば単に階級化の兆候がミドルクラスとともに現れている、ということであるに過ぎないのかもしれない。イデオロギーの正統な理解は、それが単なる虚偽や偽善ではなく、むしろ現実の諸制度に支えられて発生したにも関わらず自ら価値化されることで現実世界の基礎づけとなり、この倒錯によって行動を律し行動がさらに価値をかくあらしめるといった循環を描く、人間にとってのひとつの恒常性、条件なのだということを弁えていた。

己を普遍的真理であると自惚れている資本主義の精神は、自ら矛盾を定期的に曝すことでむしろ原則のひとつである希少性の論理――特殊で数少ないものと一般的で有りふれたものの循環的総合ということに忠実であろうとするわけであるが、いずれにせよ、彼らの生命線が彼らの危機であることには変わらないし、同時に急進主義の政治にとっても不可欠な起源であり、目的であるということもまた事実なのだから、平常性を不可能にする常態と化した不安定さは数々の社会的閉塞を突破する亀裂となることで利用可能な手段となることを忘れるわけにはいかない。けれども、不安定な恒常性は自らを諸条件一般として理解することを拒むきわめて巧妙な論理を兼ね備えている。したがって、認知は意識的な不安定を誘発する破壊的活動によって覆される必要がある。恒常的である不安定性に回収されるとしても、時限的には有効であるこれらの手段は専ら技術ではなく、単純な社会的正常性への侵犯として理解される必要があると思う。

階級が再編され固定化された後には大抵が停滞期が待っているものであり、その停滞期には階級闘争はむしろ後景化してしまうから、なんらかの危機が連鎖的に社会の正常性を揺さぶるときにはこの機会を決して見誤らずに階級性と社会的一般性という往復運動の中から合理的正当性を担うにたる言葉を見出さなければならない。

http://d.hatena.ne.jp/tzetze/20090129/1233229129

まあ、便器が一つか二つ壊れてる程度は「迷惑行為」に回収されてしまいますが、町一個あるいは特定の空間すべてにおいて破壊されるなら、そのことは大変有意味な機能を担いうるという、そういうお話です。

つくってみた。

http://anticops.ring.hatena.ne.jp/

ロゴはどうしようか。というか、俺が管理するのは殆ど現実的でないなあ。まあ、オマワリに少しでも疑問を感じてる人なら誰でもOKです。そもそも、制限かけてないしね。以下、サンプルを挙げてみる。

1.警察活動の現状は極めて問題が多い
2.治安機関には実効的な規制と監視が必要だ
3.中央集権的な警察機構は解体して、権限を各自治体に委譲すべきである
4.パクられそうですorパクられました
5.とりあえず、オマワリは全員くたばれ

基本的に理由や動機は問わないので、このリストは無限に増やせるよ!